CLOSE
記事を読む


靴磨き職人 千葉スペシャル 千葉尊氏
「技術は裏切らない」――唯一無二の靴磨き職人が持つ信念

市場の常識を変えるような華々しいプロダクトやサービスが日々メディアに取り上げられる今日。その裏では、無数の挑戦や試行錯誤があったはずです。「イノベーター列伝」では、既存の市場を一変させる挑戦や、新しい習慣を根付かせるような試み、新たなカテゴリの創出に取り組む「イノベーター」のストーリーに迫ります。今回話を伺ったのは、靴磨き職人集団「千葉スペシャル」を束ねる千葉尊氏。今でこそ、東京・有楽町と八重洲の2拠点で多くの紳士淑女を顧客に持つ同氏ですが、始まりはガード下の路上靴磨き。通報されては追い払われ、場所を変えて営業することの繰り返しでした。唯一無二の靴磨き職人が誕生した経緯を探ります。


プロ棋士になれないことを悟った小学生時代

子供のころは、勉強よりも遊びに夢中でした。特に打ち込んでいたのが将棋です。毎日、将棋盤に向かっていましたね。しかし、プロになるのが無理だということは、子供ながらに理解していました。プロを目指すなら、小学生時代に県代表になるくらいの腕前がないといけませんから。史上最年少のプロ棋士として活躍している藤井聡太七段もそうです。彼は10歳の時点でずば抜けた才能を持っていました。

それなのに、なぜ将棋に打ち込むことができたのか。理由は、プロの領域がどこにあるのかを自分なりに探りたかったところにあります。その結果、自分の実力ではプロになれないと判断したわけですが、どこが頂点なのかを知ることは意義があったと思います。

もう一つ、子供ながらに理解したことがあります。それは「技術は裏切らない」ということです。技術は磨くほど自分の武器になるという考えが、将棋を通じて身に付きました。

このような考え方をするようになった背景には、父の影響があったのかもしれません。父は製材の仕事をしており、手先が器用で何でも自分で手作りする人でした。曲がった釘ですら、真っ直ぐに打ち直して使っていました。現在と違って、当時は釘1本ですら貴重でしたからね。

また、父は刃物の研ぎ方にも習熟しており、ノコギリの目立ては特に上手でした。ノコギリは研ぐ角度が重要なんですが、実は靴磨きにおいても指を靴に当てる角度が非常に大切なんです。そのようなノウハウを発見したのも、父の影響があったのかもしれません。

弟子入り後わずか3日で追い出される

靴磨きを始めたのは、上野の不忍池で靴磨きの先生に出会ったことがきっかけでした。最初は、その先生から「仕事で使う足置き台を作ってくれないか」と頼まれたんです。わたしにとってお客様用の足置き台の製作は“お安い御用”でした。当時は定職にもついていなかったので、「足場を作る代わりに、いっしょに靴磨きの仕事をさせてほしい」と頼んだのです。そして、先生がお客様の靴を磨く様子をすぐ横で観察させてもらうところから始めました。

ところが、わずか3日で追い出されてしまいました。もしかすると、先生はわたしに靴磨きを本気で教えるつもりはなく、単に足置き台を作ってほしかっただけだったのかもしれません。しかし、その3日間で、「もうこの先生から教わることはないな」とも感じていました。靴を磨くためには何を用意すればよいのか、どうすれば商売になるかを把握できたからです。「これなら自分にもできるぞ」と思いました。

有楽町駅のガード下で靴磨きを始めたのですが、すぐに問題が浮上しました。路上で商売をしていると、すぐ警察に通報されて追い払われてしまうんです。警察の姿を見ると、直ちに片付けて別の場所に移動するという“いたちごっこ”の毎日でした。

それでも、特に呼び込みをしなくても、しだいに常連客が増えてきました。独自開発したクリームで、心をこめて丁寧に磨くのはもちろんですが、お客様に自分でできる普段のお手入れ方法を教えてあげることを心がけていました。そのため、「この靴磨き職人は、ほかとはちょっと違う」と評価されたのかもしれません。

多くの方が誤解しているのですが、革靴は一度履いたら軽く水拭きすると美しさを保ちやすくなります。水拭きすることで静電気を防ぎ、ホコリがつきにくくなるのです。大事な革靴を長く履くには、定期的に靴磨きをするだけでなく、持ち主であるお客様自身による日々のお手入れも必要です。

革靴を長く履き続けたいというお客様のために

たくさんのお客様の革靴を磨いてきましたが、特に強く印象に残っているお客様がいます。そのお客様は、突然「あなたは靴磨き職人として成功できるのかね?」と話しかけてきました。この仕事を始めて間もないころです。あまりにも唐突だったので、わたしは「時が経てばわかる」とだけ答えました。

あとでわかったことですが、そのお客様は、大手空間デザイン会社の会長でした。その後も頻繁に靴磨きに訪れ、行政命令により路上での営業が停止になったときにも力を貸してくれました。この方が提供してくれたお客様用の椅子と棚は、現在も大事に使用しています。

なぜ、わたしに対してそこまでしてくれたのかはわかりません。目を掛けてくれていたのかもしれませんし、単に自分の足元をきれいにしてくれる人がいなくなると困るからという理由かもしれません。

このお客様のような大手企業の経営者はほかにもいらっしゃいますが、ふんぞり返ることはなく、腰が低いという共通点があります。靴磨きの席についたら、「お願いします」から始まります。たくさんのお客様に接してきたので、最初の一言でその人の人間性が大体わかるようになりました。

いつまでこの仕事を続けられるかはわかりませんが、いつかは自分で“本物の靴”を作ってみたいという想いがあります。現在は合成皮革の靴が安く大量生産され、革靴が売れにくい時代です。合成皮革の品質も向上し、われわれのような職人でも実際に触れるまで本革か合成皮革か判別できないこともあります。

本革のすぐれている点は、その復元力です。踏まれても元の形に戻りますが、合成皮革はそうはいきません。使い込むほど、その差は歴然となります。お気に入りの革靴を長く履き続けたい――。そう考えるお客様の手助けを今後もしていきたいですね。

CLOSE

このコンテンツは端末をタテにしてご覧ください